手話のバイリンガル教育というのをよく聞く。一般的なバイリンガル教育といえば、例えば、日本語と英語のバイリンガルを育てる、といった教育カリキュラムだと思うが、ろう者にとってのバイリンガル教育は少し違う。日本語と日本手話という2つの言語を扱える、という意味では同じだが、その目指す方向性がやや異なる。
日本語については、聞く話す、ということは原則対象とせず、読み書きを対象とする。第一言語は日本手話であり、日本手話は学習言語のレベルまで習得させる、その上で、第二言語である日本語については、読み書きのレベルを学習言語のレベルまで習得させる、というものになる。
日本語を聞く話すということは、ろう者にとって難しく、自然なものではないので、そこはターゲットにはなっていないようだ。その分、第一言語である日本手話の教育が充実しており、国語とは別に、手話を学ぶ科目がある。
この教育方針を最初に聞いたときは、これまで知っていた教育とあまりにも違うのでビックリしたが、よくよく考えてみると、これはこれで自然なのだろう、と最近は思う。
一般的に重い難聴の場合、補聴器で音声言語をカバーするのが難しいケースが多いと思う。だから、聞く話す、というのを基本とする日本語の教育だけを見ていると、なかなか厳しい現実がある。日本語の習得が困難なケースも多く、第一言語として設定した日本語での意思疎通や概念形成が十分にできない場合があるという。
一方で、手話であれば、目でみる言語なので、重い難聴児も自然に習得できる。手話習得に関して先天的なハンディがない。むしろ、目の子なので、目で情報を捉える能力が聴者よりも高く(これは、子供を見ていて実際にそう感じる)、手話習得のアドバンテージがあるといえそうだ。
もちろん、手話を覚える環境が必要で、それを確保するのが今の日本では極めてむずかしいという問題点はある…
手話の世界は奥深い。聴の世界だけでは到底わからなかったが、ものすごく豊かな表現の世界がある。手話単語を並べて表現するという基本的な動作に加えて、顔や体全体を使って、単語の世界にいくらでも彩りを加えることができる。日本手話の教育を受けた子供達の表現を目の当たりにすると、その豊かな表現力に脱帽してしまう。本当にすごいのだ。
これだけの表現ができる言語であれば、手話をもって日本語では表現できない世界まで表現できているのではないか、とすら思う。
日本手話を第一言語に設定して、しっかりと日本手話を身につければ、母語を自由に使いこなせることができる。母語を自由に使えるということは、脳内に豊かな概念が形成されているということになる。
これを基本にして、第二言語を学ぶ。それもろう者にとって先天的なハンディのない、読み書きにフォーカスしてだ。
とても理にかなっていると思う。
こういう教育があることをもっと多くの人に知って欲しい。
特に難聴の子供達と接する機会の多い医療関係者に…