手話の位置付けの歴史

今でこそ、言語として認識され、テレビで見ることも珍しくなくなっている手話であるが、日本では手話が禁止されていた時期があったらしい。最初にこの話を聞いた時は驚いた。しかも、昔の話ではない。ほんの少し前の話だ。どういうことなのだろう?

ざっくりと、ろう教育における手話の位置付けの歴史を概観してみる。

日本におけるろう教育は1878年まで遡る。京都に京都盲啞院が設立され、ろう教育がスタートしたと言われている。ここでの教育は、手話も口話も、というスタイルであった。

1920年代頃になると、欧米の影響を受けて、口話中心の考え方が日本に広まってくる。急進的な口話推進の活動や当時の文部省が口話法の徹底を推奨するなど、口話中心の考え方が日本を席巻するようになる。そして、ついにはろう教育において手話が禁止されることになる。

しばらく手話にとって冬の時代が続くが、1970年頃、口話法の限界が主張されるようになり、また、アメリカのトータルコミュニケーションの考え方が日本に入ってくると、徐々に手話が復活してくる。トータルコミュニケーションとは、手話も日本語も、指文字等のその他の手段もフルに活用してコミュニケーションをとるという考え方である。    

その後、1990年代になると、ろう者の言語である手話を母語とするバイリンガル教育が欧米から入ってくる。日本においては、2008年の明晴学園設立によって、このバイリンガル教育がろう学校の一つの教育の形となる。

このように、手話と口話の併用から始まり→口話オンリー手話禁止の時代→再び手話と口話の併用→手話中心の教育、という歴史がある。

この歴史を踏まえると、これまでの考え方は、①口話を中心とする考え方、②口話と手話の折衷的な考え方、③手話を中心とする考え方の3つに大別することができる。

では、現在はどうだろうか?

現在はこの3つがいずれも併存している状態だ。現在の療育・教育方針は、概ね、このいずれかに当てはめることができると考えている。

だから、一口にろう学校と言っても、その教育方針は異なり、①も②も③もあり、ややこしい。

もう少し細かく見ていくと、話はもっとややこしくなる。

①はオール日本語。日本語で話す、聞く、読む、書くという考え方であり、聴者と同じだ。②は基本日本語で、主に話す、聞くことについて、手話等でカバーするというイメージか。③は手話中心。話す、聞くのではなく、手話で表現し、読み取る。とはいえ、手話オンリーかというとそうではない。手話には書記言語がないので、読む、書くことについては日本語を使うという考え方になる。

更に、②と③の手話は異なる。②は日本語対応手話であるのに対して、③は独立した言語である日本手話である。

このややこしさが、先天性難聴児の療育・教育の難しさを反映しているのだろうと思う。