日本手話と日本語対応手話

※ 東京在住 DENKAさんより寄稿いただきました。

 私は55歳にして手話を習い始めて現在、5年目となります。うち2年間、管理人さんと教室を共にして学びました。

 手話を始めようと思ったのは、「全国高校生の手話によるスピーチコンテスト」というイベント運営にかかわったのがきっかけです。同コンテストは1984年から始まり35年の歴史を持ちます。当時、一般の高校や大学に聴覚障害者が進学するようになり、高校や大学で手話を盛んに勉強するようになった、といいます。手話の習得やサークル活動に取り組む高校生や大学生の活動を奨励し、手話の普及とボランティア活動、福祉教育の推進を図ることを目的に、コンテストが生まれました。1回目から15回目の1998年までは大学生も出場していました。

 そうした経緯もあり、このコンテストは「日本語対応手話」を基本としています。それに対し「なぜ日本手話を使わないのか」という批判が当時からあったと聞きます。ここに「日本手話」と「日本語対応手話」との問題が登場します。

 この問題を語り始めると、ろう者の文化をどう理解するか、理解すればいいか、の問題を論じざるを得ません。それは、短い文章ではとても語り尽くせませんし、そもそもそんなことを語る知識と経験が自分にあるか、自信がありません。でも、この問題は私が今一番関心を持っているテーマであり、これを解きほぐすことが、ろう者と聴者がお互いを理解し合う出発点となりうるのではないか、と思っています。ですので、この問題についてもう少し筆を進めます。

 4年前、そうしたコンテストの歴史を聞いたときは、日本手話と日本語対応手話との違いを全く理解していませんでした。実は4年たった今も、その違いが分かりません。

「日本語対応手話」って何なのでしょうか?

 私は毎週、時には複数の手話教室に通い、月に何回かはろうの方とコミュニケーションをとる機会を持っています。しかしながら、日本語対応手話について納得のいく説明は聞いたことがありません。「日本手話は日本語とは違う独自の文法を持っているので、日本語の単語を手話の単語に置き換えただけの対応手話とは、語順を始め全く異なる」という説明はよく聞きます。

 私が通っているのは、ソフトバンク(今春まで)やWPがやっている教室ですので、日本手話を習います。その経験で言えば、日本手話独自の文法とは、顔の表情や体の向き、手を動かす空間の位置までひっくるめて表現することなのかな、と思います。人差し指を下に向け体の前から前方に動かす「行く」という手話(単語)を例に取れば、顔の表情や動かすスピードを変えることで、「喜んで行く」「いやいや行く」「急いで行く」といったいろいろな意味を表せるし、「行くな」「行かない」といった否定の意味を表すこともできる、と習いました。

 これを「喜ぶ」「行く」という手話で表現すると「変な手話」となり、違う意味に取られることがあるかもしれません。でもそれは「手話が下手くそ」なのであり、わざわざ「日本語対応手話」と言って論難することではない、と私は思います。「論難」という言葉は強すぎるかもしれませんが、「対応手話」がネガティブな意味で使われていると思います。

 よく紹介される例なのでご存知の方が多いと思いますが、手話で「9時」「10分」「前」に「集合」と表現した場合、聴者は8時50分に集合する(「9時」の「10分前」と理解する)が、ろう者は9時7~8分に集合する(「9時10分」の「(ちょっと)前」と理解する)、といいます。

 前者の意味で使う手話表現を「日本語対応手話」と言うなら、日本語対応手話の悪い例、と言えるかもしれません。でもそれは、手話という「言葉」の問題ではなく、その背景にある文化、ろう文化を理解しているかどうかの問題でしょう。まさしく「文化」の違いによるディスコミュニケーション(和製英語)です。

 「それは日本語対応手話だからだめだよ」などとネガティブに使われるとき、「日本語対応手話って、いったい何なの」というもやもやが、胸の奥から消えません。

 冒頭に紹介したスピーチコンテストでは、秋篠宮紀子妃殿下、最近では真子内親王殿下、佳子内親王殿下がいらっしゃって挨拶されます。紀子さまは手話に理解が深く、その普及に努められていることが知られています。実は、紀子さまの手話のお師匠さんは、このコンテスト創設にかかわった故・貞廣邦彦先生だと聞いています。というわけで、紀子さまや両内親王殿下の手話は「日本語対応手話」だと思います。

 テレビニュースで映されることもあるので、3人の手話をご覧になった方もあると思います。例えば「ここに臨席することは私の大いに喜びとするところです」という挨拶は、「大きい」(体の前で親指と人差し指で弧を描く)「喜び」(体の側面近くで両手を互い違いに上下させる)の順で手話表現されています。

 これは「日本語対応手話」です。でも、「あれは日本語対応手話だ」といったコメントを、私は聞いたことがありません。手話も日本語も言語なのですから、お互いがどうコミュニケーションをとろうとするか、理解しようとするかが大事なのだと、つくづく思います。

 コンクールには聾学校からの本選出場者がずっといませんでしたが、4年前の2015年には鳥取聾学校の生徒が出場し、見事3位に入賞しました。相互理解には地道な積み重ねが必要なのかもしれません。