日本初、ろう者の村長

※ 新潟在住 元新聞記者さんより寄稿いただきました。

 先日、息子からメールが来ました。「日本で初めて、唯一のろう者の村長が新潟にいたって、知ってた?」。
 「えっ?もしかして、あの人のことかな」さっそく、押し入れから新聞の切り抜き帳を引っ張り出してきました。新潟県の地方新聞の記者をしていた時に、新聞に掲載された自分の記事をスクラップしていたものです。14年前の記憶が蘇ってきました。 

 たまたま、その当時は、上越支社に勤務していまして、新聞の1面下にあるコラム『日報抄』を月一回程度担当していました。取材のきっかけは思い出せませんが、その際、取り上げた一つがろうあ者の村長の話でした。黄ばみかけた切り抜きを読み返してみました。 

 名前は横尾義智さんと言います。横尾さんは明治26年に東頸城群小黒村行野(安塚町を経て現在は上越市)の豪農の家に生まれました。しかし、生まれつき耳が全く聞こえず、そのため話すこともできませんでした。
 9歳の時に旧官立東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)に入学、9年後に同校を卒業すると、故郷に帰ってきました。40歳の時に推されて村長に就任しました。当時、日本でただ一人の「ろうあの村長」として雑誌で全国に紹介されたこともあります。

 旧役場庁舎が火事で焼失したため、横尾さんに関する資料は、残念ながらほとんど残っていませんが、「県人百年史」によれば、昭和初期の凶作の時には、農民を救うために土木工事や土地改良事業などを積極的に行いました。また、農繁期には自宅に託児所を作って無料で子供たちを預かり、農作業で忙しいお母さんたちを物心両面で支えました。

 ろうあ運動にも全力を傾けました。県内のろうあ団体の創立などに力を尽くしたほか、ろうあ者の社会参加にも奔走しました。子供たちの就職先を開拓するために、自ら県外にまで足を伸ばしたこともあったそうです。横尾さんは昭和38年、69歳で亡くなりました。

 現在、横尾さんを偲ぶ記念館が生家の一角にありますが、地元の行野の方が管理しています。さらに、『日報抄』によると、地元の有志の皆さんが、「3年前から手話の勉強を始めた」ということです。私も手話を始めて1年半。未熟な手話がどこまで通じるか。雪が溶けたら、もう一度記念館を訪れてみたいと思っています。

 最後に、横尾さんが電車の中で知り合った少年に渡したメモを紹介します。このメモは少年の宝物になったそうです。

波の形が一つひとつ違うように
人間も違っていい。
私は耳が聞こえないという
ひとつの波の形。