日本語での子育てと、手話での子育て

僕には子供が2人いる。聴の子供にはたくさんの日本語を覚えて欲しいと思っているので、家では、大人の言葉でできるだけたくさん喋るようにしている(といっても、疲れるほど意識しているわけではないが)。その甲斐があるのかどうだか不明ではあるが、良くも悪くもベラベラ喋る子供に育っている。年齢の割には言葉をたくさん知っていると思う。ただ、(おそらく)僕の悪い影響で、汚い言葉もたくさん吸収してしまったようだ。反省している…

聴の子供は耳学問で、耳から入ってくる言葉をどんどん吸収していく。だから、たくさん喋っていれば、良い言葉も悪い言葉も吸収していく。テレビや動画の音声からもたくさんの言葉を覚えている。保育園でも、先生や友達とのコミュニケーションの中でたくさんの言葉を覚えている。1日中、音声の刺激を受けて、たくさんの言葉を蓄積しているようだ。

一方、ろうの子供は、耳から言葉を覚えることが難しい。だから、子供のためにとたくさん喋っていても、ろうの子供には効果が少ない 。音声をどこまで聞き取れているのかまだよくわからないが、口が動いている様子しかわからない可能性もある。

だから、ろうの子供には極力手話で話すようにしている。が、僕は、まだ駆け出しの手話学習者だ。それなりの手話単語は出てくるようになっているが、ベラベラ手話で話すことはできないし、知らない単語に出くわすこともしょっちゅうだ。日々、もどかしさを感じている…

知らない単語もたくさんあるのだが、意外と手話単語がないものもたくさんある。

最近特に思うのが、テレビアニメ等のキャラクターを表す手話単語の少なさだ。聴の子供は、ウルトラマンやらゲゲゲの鬼太郎やら妖怪ウォッチやら、いろんなテレビアニメのキャラクターに興味がある。たくさんの名前を覚えて、よく話をしている。ろうの子供とも、同じように一緒に遊びたい。たくさんのキャラクターの名前を手話で表現したい、と思うことが頻繁にある。でも、そもそも手話単語がないケースがかなり多い。

この理由について、とあるろう者から聞いた話が、個人的にはとても腹に落ちている。

一般的にテレビアニメは、音声ありきのものなので、あまりろうの子供は見ないのではないか、言語は文化に根ざすものであり、テレビアニメを見るという文化が、聴文化に比べて、ろう文化にはそれほどないのかもしれない。だから、必然的にそれを表す手話単語も少なくなっているのでは、とのこと。

うーん、納得だ。

納得だけど、やっぱり、アニメとかの話もみんなで共有したい。そこから色んな言葉を覚えたり、新たな知的好奇心が芽生えたりすることを、聴の子供を育てながら経験しているので尚更だ。とはいえ、指文字はまだ早いだろうし…

日本語での子育てと、手話での子育て。言語の板挟みにあっているようだ…